「暇と退屈の倫理学」から見る「ジョジョの奇妙な冒険第5部 黄金の風」

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はじめに

今回、國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」を読み終わった。この本の趣旨は、人間に与えられた暇・退屈という概念がどのようなプロセスで発生し、そしてそれらに対してどのように対処すべきかを説いた良書である。私はこの本を読み終わった時に、「ジョジョの奇妙な冒険第5部 黄金の風」を思い出した。今回は、ジョジョのエピソード(特にエピローグ)に言及しつつ、暇と退屈の倫理学の感想を述べたい。

 

ジョジョの奇妙な冒険第5部 黄金の風 概要

ジョジョ第5部の主題は「運命」であると個人的に思う。「人間は、良い結果であれ悪い結果であれ、決められた結果に向かって生きていく無力な生き物かもしれない。しかし、たとえ運命に縛られていたとしてもその過程に意味を見出すことができる」というのが主要なアイデアである。

 

このことを象徴するエピソードは、エピローグの「眠れる奴隷」という話だ。ここからはネタバレになるので、ネタバレを好まない方は「暇と退屈の倫理学」のセクションまでキングクリムゾンで時を飛ばしてほしい。

 

端的にこの漫画全体の概要を言うと、イタリアのギャングに一風変わった新人が入り、彼を筆頭にギャングのボスを裏切るためにバトルをしまくるという感じである。そして、そのバトルの過程でチームのメンバーが死にまくるのだが、この「眠れる奴隷」は、その新人が加入する前に起きた出来事の話である。つまり,エピローグでありながら、プロローグでもあるのだ。

 

チームのリーダー(とても慕われている)は、件の新人の調査をするのと同時に,ある彫刻家の調査の依頼も任されていた。その彫刻家はスタンドと呼ばれる特殊能力(例、時を止められる、物体を柔らかくする)があった。彫刻家のスタンドは、「相手の死ぬ運命を石に映し出すことができる」という少し変わったもので、その石に触れれば、石に現れた悲惨な死の運命から解放され、それよりはマシな死に方ができるという設定だった。彼は敵ではないのだが、「お前は近い将来こういう風に苦しんで死ぬから、今ここで石に触れて死んだ方がいいよ」と言われて,すぐに死ねるわけがない。したがって、チームのメンバーはリーダーの死を防ぐために石を破壊し、石に触れて死ぬという事態は避けられた。

 

これにて一件落着、新しいメンバーの調査に行こう、とは当然ならない。破壊された石は形を変え、リーダーのさらに悲惨な死に様と他のチームメンバーの死をも映し出していた。つまり、この場面でリーダーが生き延びてしまったことにより、ギャングのボスを裏切るという過酷な未来を歩むこととなってしまったのだ。これを陰ながら見ていた彫刻家は、リーダーが安らかに死ぬ方が良かったはずと困惑する一方で、彼らが過酷な未来を選択し、それに沿った未来(結局新しく形成された石の通り、リーダーと他のメンバーは悲惨な死を迎える)しか歩めないとしても、彼らがその過酷な運命を歩むこと自体に意味があるのではと考える。

 

総括すると、我々は決められた運命に向かって盲目的に生きる運命の奴隷ではあるが、あるものは眠れる奴隷として目覚めて、誰かにとっての新しい風(タイトルは黄金の風)を吹かせるというのがテーマであった。つまり、与えられた運命を受け止めつつも、それに甘んじず、自分の道を進むべしということである。仮に予定された運命の通りであったとしても、その道を懸命に生きたという過程が何よりも大事だということだ。次に、このアイデアがどう「暇と退屈の倫理学」に結びつくかを次のセクションで述べる。

 

暇と退屈の倫理学

この本では、人間が暇と退屈と付き合っていかなければならない宿命を発生プロセスから論理的に説明している。大まかにそのプロセスについて説明すると,我々人間は常に退屈とそれを解消する気晴らしが混在する環境に身を投じており,退屈を感じないように様々な気晴らしを実行する。そして,一度そのバランスが崩れ退屈を感じてしまった場合,何か熱中するものを探すが,その熱中していること自体が退屈から逃れるためだけの一手段に過ぎず,迫りくる退屈から逃げるような運命を背負わされているという。

 

私は,この本を読む前から,人が"盲目的"に楽しんでいる様子に関心があった。例えば,SNSでは充実した私生活を呈示する。その場面では実際に楽しんでいるだろうし,また,その様子を知人に晒すことでも別の楽しみが見出されるだろう。しかし,このプロセスの中では,常に楽しんでいなければならない感覚を感じていた。何かによって,楽しむことを強要されるような,あるいは,楽しむことを止めたら何かに襲われるかのような空気を感じた。

 

この本を通じて,これらの現象は退屈と人間の関係から理解ができるかもしれないと思った。つまり,どこかに行ったり,話題の物を買ったりすることで,楽しみを「消費」して,宿命である退屈から逃れていたのではないだろうか。しかし,この本が示すように,「消費」とは,単純にモノやサービスを受け取ることではなく,それらが保有する情報を買っているに過ぎないのだ。そういった情報は通常終わりがないので,人は永遠に満足することなく,買い続けることを強要される。現在人気のタピオカを例にとると,行列に並んでいる人はタピオカそのものよりも,タピオカに潜む情報(話題性,私生活の充実など)を買っている。しかし,情報は限りがなく,満たされることはないので,次の情報がリリースされれば,その情報に飛びついてしまう。このプロセスこそが,退屈から逃れるものであり,かつ,退屈を生み出す原因そのものなのだ。

 

正直に言うと,私はこれまで心の中で,そういったガールズ達を「SPB-スタバ・パンケーキ・カス」と呼んで少しだけ馬鹿にしていた。そして,自分はそういった低俗な気晴らしよりも素晴らしいことをしていると自負していたが,結局自分も別の気晴らしと退屈のプールにいただけなのだ。ねるねるねるねを口で作ったことは高尚な気晴らしではなかったのだ。

 

yaitaonigiri.hatenablog.com

このように,我々は日常的に退屈という悪魔から逃げる運命にいるのだ。そして,大半はその運命に気付いていない。寧ろ,退屈から逃れるための気晴らしを心から楽しんでいると思いこんでいる。「私は何もない生活から逃れるためではなく,タピオカが好きだから並んでいるのだ」というように。

 

ジョジョでは,人は運命の奴隷であると言った。仮に,退屈が人間の運命だとするならば,私達は退屈という主人に逆らうことなく,次々に熱中できる(と思っている)ものを消費していく。そして,消費しても何も残らないということに気が付かず,次の消費する対象に飛びつく。この事実からは逃れられないかもしれない。究極,勉学に励んだり,働いたりすることも,何もない退屈から逃げるための消費行動かもしれないからだ。私たちは運命の奴隷なのか。

 

そうだとしても,私は眠れる奴隷でありたい。消費社会の枠組みは越えられなくても,自分はその枠組みの中で暮らしていると認知しながら暮らすのは,何も知らずに消費レースに参加するのとは少し違うかもしれない。認知することで眠りから目覚めて,退屈という主人と向き合ってみたい。

 

ジョジョでは,運命の奴隷と言いながらも,最初の運命(リーダーだけが死ぬ)という運命を悪い方向ではあるが変えていた。運命の奴隷であったとしても,主人を刺すことはできるのだ(カイジのEカードを見よ)。退屈からくる行動に気が付き,それについて考えた時,本当に熱中できることが見つかるかもしれない。あるいは,熱中という行為を突き詰めれば,退屈からではない別の楽しみを見つけられるかもしれない。

 

もしかしたら,タピオカに並ぶガールズ達はすでに退屈という運命に直面し,これらのプロセスを経た上で並んでいたのかもしれない。そうだとしたら,もう私は「SPK-スタバ・パンケーキ・カス」と呼んで人を馬鹿にすることはできない。なぜならジョジョでは,与えられた運命に対して,自分の信じた生き方をすることは素晴らしいことと言っていたからだ。彼女らは,「タピオカがマイライフだ」と自分の信じた生き方をしているとしたら,その人生には敬意を払わなければなら無い。これからは,「SPK-スタバ・パンケーキ・カバオくん」に昇格させよう。

 

 

 

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「カス」<「カバオ君」については,アンチカバオくん学会は否定している。