あれは雨が激しく降る日のことだった。
朝から降り続けた雨は,終業時間になっても止む気配を見せなかった。バイクで通勤しているため,この雨の中バイクで帰ることはできれば避けたかった。しばらくしたら止むかもしれないと思い,休憩室で止むまで待つことにした。願いを込めて窓の外に目を移すが,天は私をあざ笑うかの如く,一層雨の勢いを増すだけだった。陰鬱な気分に飲み込まれそうになったが,冷えた体をコーヒーで温めることで少しでも活力を得ようと努めた。熱い苦みがのどを通過し,何とも言えぬ安堵感が腹の底から湧き出た。
一息つくと,見慣れない顔が休憩室にあることに気が付いた。新人と呼ぶには程遠いその老爺は,齢にして80はくだらなそうだ。失礼ではあるが,年季の入った帽子と黒いジャンパーからは,身分の高さは窺えなかった。しかし,事務のおばさんや年配の社員たちが畏まった態度で接している様子と話の内容から察するに,かつてこの会社で働いていた人だということが分かった。怒鳴るような話口調と最悪な滑舌でほとんど何をいっているか分からなかったし,周りの人達も腫物に触れるような態度で接していることから,それほど歓迎されていないことが見て取れた。めんどくさそうな奴が来たなぁ。そんなことを考えていると,目が合ってしまった。
老爺「お前,"#$%&%$#か??」
私「え?」
老爺「だから,#$%&%$#っていってるだろ!!」
響く怒号。ついに矛先が若者に向いてしまったと狼狽する周りの社員たち。まずい,なんとかしなければ。おそらく,質問の内容としては,私の身分を問うたものだろう。さしずめ,アルバイトと言いたかったが,Dをデーという年代には少し難しかったのだろう。
私「ええ,すみません。その通りです。」
老爺「そうか。長いのか?」
私「いえ,まだ1年も経ってません」
老爺「ワシ50年」
え?ああ,こんなところでマウントを取ろうとしているのか。突然のことで,少し狼狽してしまったが,すぐに体制を立て直した。こういうジジイはおだてとけば勝手に気持ちよくなってどこかに行ってくれるだろう。
私「えー!すごいですね大先輩じゃないですか。」
老爺「ワシが働いてた時は事務所はここじゃなくて,2,300m離れたところにあったんや」
老爺「冬は寒くて,夏は暑くて最悪だったわ!!」
私「大変でしたね..」
老爺「お前,箱根出張したことあるか??」
私「いえ」
老爺「ワシが箱根に出張に行ったときは周りに浴衣の客がおったもんで,ムカついてぶっ殺したくなったわ!!」
私「はぁ」
老爺「で,名古屋に帰ってきても事務所がよぁ,こことは違うとこにあってよぉ。2,300m離れたところにあったんだけど,夏は暑くて冬は寒くて最悪だったわ!」
私「...え?あぁ大変でしたね..」
老爺「.......」
私「.....」
私「....」
私「....ハハハ」
老爺「なぁに笑っとんだ!お?お前箱根出張したことあるけ?」
私「いや,ないですよ」
老爺「ワシが箱根に行ったときな,浴衣着た客ばっかでムカついてぶっ殺したくなったわ!」
私「...ハハハ」
老爺「なぁに笑っとんだ!お?お前,この事務所来てどれぐらいだ?」
私「いや,まだ1年も経ってないですよ」
老爺「ワシ50年」
私「...!?す,すごいなぁ...」
老爺「ワシが働いとったときはな,事務所はここじゃなくて2,300m離れたところにあって,夏は暑くて冬は寒くて最悪だったんじゃ」
私「た,たいへんでしたね...」
老爺「.....」
私「.....」
老爺「....」
私「....ハハハ」
老爺「なぁに笑っとんだ!お?お前箱根出張したことあるか?」
まずいことになった。どうやら私はジジイの無限アリ地獄にはまってしまったようだ。
同じ話が繰り返され,それに対して返答を見つけられず沈黙の後,愛想笑いをするとそこを引き金に同じ話が展開される最悪の無限ループだ。この状況どうしたものか。この無限ループにしばし身をまかせて,助け船が来るのを待つか。幸いループは,旧事務所,箱根出張,勤務年数マウントの3要素という比較的楽な話題なので,返答も適当で良い。依然として雨は降り続けている。しばし,この流れに身をまかせ,雨が止むまで待つことにしよう。
私「箱根出張をしたことはありません」
老爺「ワシが箱根に行ったときな,浴衣着た客ばっかでムカついてぶっ殺したくなったわ!」
私「...ハハハ」
老爺「なぁに笑っとんだ!お?お前,この事務所来てどれぐらいだ?」
老爺「ワシ50年」
私「...!?」
私は少しの違和感を覚えた。それは,勤務年数に対する私の答えを待たずして,老爺が先に答えてしまったことではない。そういうことはジジイにはよくあるのだ。そんな些細なことではなく,もっと大きな枠組みで生じたズレが私の違和感の原因だった。しかし,それが何なのかはわからない。首筋に一筋の嫌な汗が伝わった。
私「50年かー....スゴーイ」
老爺「....」
私「....」
老爺「...」
老爺「昔はバッタで人をどやしたりな」
私「!!!!!!!!!!!」
そうか。違和感の正体はこれだったのだ。このジジイの技は純粋なジジイ無限ループではなかったのだ。ジジイは拡張型無限ループの持ち主だった。拡張型無限ループとは,一見一定の要素を有するループに見えるが,カタツムリの殻のように,そのループの要素は段々と大きくなっていくのだ。つまり,先ほどまでは旧事務所,箱根出張,勤務年数マウントの3つで構成されるループだったが,ここに,昔のやんちゃエピソードを加えた4つになり,さらにその数は今後増す見通しとなってしまった。これは,ループから抜け出すのがますます難しくなってしまった。何とかして,抜け出さねば...
老爺「....."#$%&'&%$!!!」
私「え?」
老爺「だから!!昔はバッタで人をどやしたりしとったって言ってんだろ!たわけが!」
返事を待っていたのか。可愛らしいところもあるな。
私「バッタ...ですか?」
老爺「あ?お前バッタも知らねーの!バッターだよ!野球の!!」
私「あ,バットですか。怖いですね」
老爺「おう。昔はバッタで暴れまわってな」
老爺「昔は事務所が2,300m離れたところにあったんだけど,そこは夏暑くて,冬寒くて」
私「うわ,すごいなー」
老爺「箱根でぶっ殺したくなってな」
私「やば」
老爺「50年」
私「すご」
老爺「バッタで暴れて」
私「バットですね」
老爺「50年」
私「ハハハ」
老爺「何笑っとるんだ..!!お前,箱根行ったことあるか?」
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老爺「お前この事務所来て何年だ?」
私「まだ,50年ですよ」
老爺「ワシ,100年」
私「うわ,すごいな」
老爺「お前,箱根行ったことある?」
私「いや,ないです」
老爺「浴衣のやつらぶっ殺したくなってな」
私「ハハハ」
老爺「何笑ってんだ!お?お前この事務所に来て何年目だ?」
私「まだ50年です」
そう,あれから50年経った。結局,ジジイの無限ループから抜け出せないまま私とジジイは同じ会話を50年続けている。途中,2度に渡る大規模な核戦争,大地震,巨大隕石落下など,世界は混沌の極みを経験したらしい。秩序は崩壊し,世界のしくみは変わった。刹那的な考えは,人類と自然の共存という考えに変わった。一部の人だけが富を独占するしくみは,皆が等しく富を受けられるように変わった。特定の人種が特別に良いとか悪いとかいう考えも変わった。世界は変わったのだ。しかし,ジジイの話は変わらない。社会の趨勢という激流に抗うかの如く,ジジイの話す内容は全然変わらない。ジジイは依然として問いかける。箱根に行ったことあるかと。きっと私が何と答えようと,ジジイは浴衣のやつをぶっ殺したくなったエピソードを言うのだろう。その変わらなさが一種の安心感となり,口角を上げさせる。
この会話に生産性などないかもしれない。しかし,雨はまだ上がりそうもないので,もう少しこの会話に付き合ってみようと思う。