わかってしまったこと

ラチェット&クランクというゲームがとても好きで、小学生のころから通算500周くらいはクリアしている。23歳になり就職した現在も、他にやることもないので、ひたすら周回プレイをしている。

 

さて、そんなラチェット&クランクの3作品目、ラチェット&クランク3では、裏技コードを使うと、「サルゲッチュ」というゲームのキャラクター、「ピポサル」を使用することができる。

Ape Escape 2 - Twitch

サルゲッチュ

 

「ピポサル」はパンツの色で特性が変わるという特徴があり、(例えば水色パンツはおとなしいとか、赤パンツは攻撃性が高いといった具合)、そういったサルの特徴が魅力の一つなのだが、やはりなんといってもメインキャラクターは黄パンツのピポサル(ノーマル特性)であろう。サルを捕まえる主人公は知らないけど、黄パンツをはいたピポサルはイメージできる人も多いのではないだろうか(ちょうどバカボンよりもバカボンのパパの方が有名になったように)

 

それ故に、他作品とコラボレーションするときはサルゲッチュ代表として、黄パンツのピポサルがアンバサダーを務めることが多い。Ape Escape Makes Its Appearance in Everybody's Golf Mobile AppMetal Gear Solid 3 Snake Eater & Ape Escape Crossover Promotion | Sticker |  Magnet | Poster" Poster by OuterOutlet | Redbubble

 

そして、話は冒頭に戻るが、ラチェット&クランクでもピポサルが使えるとなると、必然的に黄パンツをイメージする。しかし、実際、裏技コードを使って出現するピポサルは、

 

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死角外からの青色パンツなのだ。

 

 

青パンツは足が速いという特性ではあるが、作品の中で特別人気があるわけでもない。また、青パンツは同じくタレ目で色の系統も似ている水色パンツと差別化するために、基本的にはゴーグルをつけているため、ゴーグルなしの青パンツはどちらかというとレアなケースなのである。

 

そういった点から、なぜわざわざ青パンツのピポサルなんだろうとずっと疑問に思っていたが、小学生だった自分は難しいことを考えるとお腹が空いちゃったので、特に気にせずゲームを続けていた。そして、23歳のゴールデンウィーク。通算501周目のプレイをしていたとき、唐突にひらめいてしまった。

 

おそらく結論は、「批判を避けるため」であろう。

 

どういうことかというと、このラチェット&クランクはアメリカ発のゲームである。そして、サルゲッチュは日本発のゲームである。しかしながら、日本国内では、コロコロコミックの精鋭マーケティング部の力によって、夏商戦は「サルゲッチュ」、冬商戦は「ラチェット&クランク」というプランニングができたので、小学生にしてみれば、同じ規模感のゲームと認知させることができたのである。一方、アメリカでは、同じようなマーケティングは実施していなかったので、アメリカユーザーのサルゲッチュに対する認知度は、日本ユーザーが外資のラチェット&クランクに抱く認知度と同等とは言えなかったと考えられる。故に、ピポサルというキャラクターをそもそも知らないというユーザーが多く、そんなユーザーが裏技コードを使った結果、黄色のパンツを履いたサルがでてきたらどう思うだろうか。イエロー モンキー、ということからレイシズム的な発想と誤解してしまう可能性があるのではないか。

 

これを避けるために、黄色以外の色に変更する必要があるが、たかや ar Twitter: “「ピポサル」のコスプレ… ”

この顔のまま違う色のパンツに変更することはできない。というのも、このサルの顔に対応するパンツは黄色のみ(一応、一作目では白パンツも同じ顔だが、それ以降メガネキャラになったため、コアなファンしか納得できないため不可)であり、あとは、

ピポサルのTwitterイラスト検索結果。

ツリ目、メガネ、サングラスなど、隠しキャラとして開放するには、少々華がない奴らばかりになってしまう。そこで消去法として、タレ目が選ばれたが、水色パンツは、臆病、おとなしいという消極的な特性があるので、こちらもまた隠しキャラには向かない。そこで、一応ゴーグルなしのタレ目verもある青パンツを採用した、という経緯ではないだろうか?

 

確証こそないものの、理論的には私の推測は正しそうである。幼少期の疑問は今、「わかってしまった」のである。この推測には、人種問題に対する知識、ユーザー目線で考える他者視点、論理的思考力など、幼少期にはなかった種々の能力が必要であり、年月を重ねるほどにそれらの能力を体得していって「わかっていく」のであろう。こういった物事を理解する過程は、なぞが解けた!という快感よりも、そういうものだったのか、という一種の失望や寂しさのような面の方が大きい。

 

今回の例で言えば、幼少期にとっては、無限の宇宙を冒険するような気持ちでプレイしていたゲームも、人が人のために作ったものという当たり前の事実がわかってしまった。恋愛の例で言えば、相手の思惑とか、こういう動機でこういう行動をしているんだなと「わかってしまう」と途端に冷めてしまう傾向にある。

 

こういったことを主張すると、お前は「わかった」気になっているだけ。本当は、お前は何も「わかっていない」、とソクラテスのようなことを言ってくるかもしれないが、私は別に真実を知ったつもりでいるわけではないのだ。つまり、それが正しくても正しくなくても、自分の中の思考プロセスで説明できてしまったら、もうそれで悲しさを覚えるのである。だから、本当のことなんてそもそもなくて、自分がそう思ったらそれが自分にとっての世界なのだ。

 

例えば、カツ丼を美味しそうに頬張る女の子を見ても、別にカツ丼が好きだとか、ここが有名なカツ丼屋さんだから食べてるんだ、ではなく、この子はカツ丼に親を殺されたから腹いせに食い殺しているのだ、と思考プロセスを踏めてしまえばそれは自分の中では「わかったこと」になるのである。このメチャクチャなプロセスだけをみれば、こいつは頭がおかしい人だなと納得できるかもしれないが、では、各々の思考プロセスが果たして異常ではないと果たして言い切れるだろうか。もしかしたら、カツ丼を頬張る真意は本当に親の仇だったかもしれないし、美味しいから美味しいものを食べるという因果関係プロセスを思ってるのは実は自分だけで、他の人はみんなまずいから食べるという思考を持っている可能性も否定しきれない。

 

ごちゃごちゃ書いてしまったので、まとめると、自分はなにかを「わかった」ときに、虚しさを感じる。そして、その「わかる」ことは、真実である必要はなく、自分の世界で完結してしまうプロセスなのである。側から見れば世界を「わかった」気でいるイタイ奴に見えるかもしれない。しかし、それでもなにかを「わかって」しまうことで、1つ1つ持ち物を捨てている感覚になってしまう。結局今回何が言いたかったのかはわからないが、ただ1つわかったことは、こういった気持ちは誰とも共有できないことである。