履いたジーパン、洗うか、洗わないか

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旅に出てから約一週間が経過した。現在は、東京の友達の家でアメリカの友達と奇妙な3人生活をしているのだが、ふと家主が私にこう尋ねた。

 

「そのジーパン1週間履きっぱなしだけど洗わなくて大丈夫?」

 

私ははじめ何を言っているのか理解ができなかった。というのもジーパンは洗ってはいけないものだと思っていたからだ。我が家ではジーパンは洗わないものと教育されていた。キムタクは洗わないという例も添えられながら、そのように教育されていた。したがって、ジーパンを洗うということはこれまでの教育と反するものとなるので、私にとっては「非常識」となる。

 

しかし、どうやら彼にとっては私のこの「常識」がひどく「非常識」に映ったらしい。いや彼だけではない。偶然居合わせた他の友達もジーパンは当然洗うものだと考えていた。

 

たしかに、汗や皮脂がつくのでTシャツと同様洗うべきという旨の主張は理が通っているのだが、いかんせんこれまで洗ってはいけないと言われ続けたものなので、少なからず抵抗はあった。例えるならば、モスバーガーで購入したハンバーガーを毎回洗濯機で洗濯してから食べることに抵抗を感じる人は多いだろう。なぜならモスバーガーは洗濯してはいけないと教育されているはずだからだ。モスバーガーを洗濯するという居心地の悪さを私はジーパンで感じたのである。

 

これは、ひとえに教育の強力さと恐ろしさを表した場面だと思った。私の考える「常識」が誰にも理解されず、また反対に誰かの「常識」が私には理解できないことがある。それぞれがそれぞれの「常識」を持っているからだ。

 

この違いが多様性という良い違いになり得る一方で、決して分かり合えない別々の存在と意識させてしまうことがあるかもしれない。さらに恐ろしいことは、自分の「常識」は所謂「常識」なので、そう簡単には変えられないということである。「多様性の文化では、文化を変えるのではなく尊重し合うことダヨ」と言えるのはせいぜいたい焼きを頭から食べるか尻尾から食べるか程度の文化差であろう。もし仮に自分の婚約者が新月の夜は処女の生き血とコガネムシを煮込んだスープを飲むことを常識としていても、多様性万歳と涙ながらに分かち合えるだろうか。

 

話が飛躍しすぎたかもしれないが、今回の趣旨としては自分の「常識」が「非常識」となり得ることを念頭に置き、失礼のないよう振る舞うことが大切と思った次第である。自分の「常識」が「非常識」であると認知することは、これまでの自分を否定するようで辛いこともあるかもしれない。しかし、他の人と社会生活を営んでいく上では、時には自分の「常識」を捨てられるような勇気と潔さが必要なのであろう。私はそのような勇気ある行動ができるようにこれからは精進していきたい。

 

そう決意して、いつものようにカルッチャッパ様の秦昇円環ノートに書き記した。